• JEATH戦争博物館

    JEATHとは、第2次世界大戦時に造られた泰緬鉄道建設に関わった、JAPAN(日本)・ENGLAND(イギリス)・AUSTRALIA(オーストラリア)・THAILAND(タイ)・HOLLAND(オランダ)の頭文字をとって付けられたもの別名「死の鉄路」を伝える場所で、当時の写真や水彩画、スケッチなどが展示されている。

  • アランヤプラテート

    アランヤプラテートは「僻地」と言う意味。俗にアランプラテートとも発音される。

    アランヤプラテートはカンボジアとの国境地帯であり、過去にはタイ国鉄の列車がバンコクからプノンペンまで走っていたが、1970年代のクメール・ルージュの時代に運行は停止した。現在では、バンコクからの列車はアランヤプラテート中心部まで通っており、国境およびカンボジア領内での運行はなされていない。

  • クウェー川鉄橋

    軽快で覚えやすいメロディーの名曲「クウェー川マーチ」で有名となった、映画「戦場に架ける橋」。
    この戦場に架ける橋というのはクワイ川鉄橋のことで、今もタイ国鉄の線路の一部として使われています。
    クワイ川鉄橋は、その泰緬鉄道がただ一度だけメクロン川(現在は鉄橋の名前にちなみクワイ・ヤイ川と改名されています)を渡る箇所に架けられています。橋脚と橋脚のあいだを小さい曲線の鉄製のアーチを
    連ねてくみ上げることによって橋を支える、トラス橋と呼ばれる構造の橋です。

  • サムチュック市場(百年市場)

    バンコクから北へ135キロのところにあるスパンブリ県のサムチュック市場は昔から営みを続けている古い木造の建物が集まる街は、タラート ロイ ピー(百年市場)と呼ばれ、今でもたくさんの人が訪れ、賑わいを見せています。
    週末ともなれば、全国から多くの人がおとずれ活気のあるタラート ロイ ピーでは昔ながらの名産品をいろいろと楽しむことができます。

  • タイガーテンプル

    人里離れた小さな寺 9人の僧たちが仏教の厳格な教えを守り、質素で清らかな生活を送っています。
    しかし、ここは普通の寺ではありません。この寺の僧たちは修行をしながら、11頭のトラと一緒に生活しているのです。
    彼らはトラの飼い方を自分たちで学び、毎日トラに餌をやったり、寺の周囲を一緒に散歩したりしています。
    初めて寺を訪れる人々はトラと僧侶の信頼関係を見て驚きます。

  • ダムナンサドワク水上マーケット

    バンコクから南西へ約80Kmのラチャブリ地区にあるタイ最大水上マーケット。
    帽子をかぶったタイ女性が漕ぐ小舟には、新鮮な野菜や肉、魚介類、南国のフルーツ、日用雑貨が満載され、中には食事を提供する小舟もあり、伝統的なタイの庶民文化を垣間見ることができる。
    クロン(運河)に沿ってみやげ物屋も軒を並ベ、いつも活気に溢れている。1番活気のある7時から9時の間には約400隻程の小舟が集まっている。

  • バンパイン離宮

    チャオプラヤ川の中州に建つ宮殿。
    アユタヤ王朝第26代プラサート・トーン王によって築かれた夏の離宮を現王朝のラマ4世と5世が再建しました。
    一般公開されているのは中国風建築の陽明殿で、繊細な装飾が施された豪華な宮殿。

  • ポイペット

    タイでは賭け事はご法度なので、ギャンブル狂いのタイ人のために作られた一大カジノ地帯です。
    カンボジアとは言うけれど、実際はタイ人のタイ人によるタイ人のためのカジノ地帯です。
    競技種目は、スロット、競馬ゲーム、テーブルは、ブラックジャック、ポーカー、パイゴーと一通り揃っているけれど、ここの主力は何と言ってもバカラ。
    バカラをせずば人にあらずという感じで、ポイペット全体ではおよそ1000以上のバカラテーブルがギャンブラーの懐を狙っています。ただミニマムベットも50B(150円)、絞りも100B(300円)からできるので、バカラ初心者も十分修行を積むことができます。

  • メークロン鉄道市場

    バンコクの西 約70kmのサムットソンクラム(Samut songkram)の別名メークロン(MeaKlong)。
    バンコクからサムットサーコン(マハチャイ)を経由する鉄道、メークロン線の終着駅。ここの名物は鉄道市場 「タラート ロットファイ・メークロン」線路の上のマーケットです。
    果物や魚介類等を中心とした多数のマーケットがあります。
    しかし1日に列車が8回通るので、列車が通る度に一斉に店を閉めるのです。

  • ラン島

    パタヤから遊覧船で45分、沖合い10kmに浮かぶラン島は、輝く白い砂と珊瑚礁に包まれた美しい島です。
    ラン島とはタイ語で「禿の島」という意味ですが、実際は豊かなやしの木に覆われた緑の島です。
    白い砂浜と青く澄んだ海とのコントラストの中、マリンスポーツを楽しむことが出来ますが、最近はツアー客の増加とマリンスポーツも過密気味なのでぶつからないよう十分に注意してください。 

  • ワット ロカヤスタ

    タイのアユタヤ県にある仏教寺院の廃墟。短くは「ワット・ローカヤスター」とも言われ、日本のガイドブックなどでは、「ワット・ロカヤスタ」などの表記が多い。
    建設は後期アユタヤ王朝中期で、当時は他の仏教施設もあったという。アユタヤ王朝陥落時1767年に大部分がビルマ軍(旧ミャンマー)軍の破壊に会い、現在は涅槃仏 のみが残る。
    涅槃仏は穏やかな表情と人間味ある姿形で、北方を向いて寝ている。

  • ワットパイローンウア(地獄寺)

    スパンブリ近郊に位置する、ワットパイローンウア 通称『地獄寺』 は道を挟んで巨大仏陀やセクシーな仏陀をお参りできる場所と まさに地獄絵図を人形で表現した(写真では載せれないグロテスクな人形等)場所の2箇所があります、このお寺でタンブン(徳をつみ)をして、天国に行ける様に、タイ人はお参りに訪れるそうです。

  • ワットプラシーサンペット

    市内の中心部ラマ公園と王宮跡の間に並んで建つ3つの白いパゴダが、ワット・プラ・シー・サンペットである。アユタヤ遺跡を象徴するワット・プラ・シー・サンペットは、15世紀に王宮専用寺院として建てられ、当時は王宮と一緒になっていたが、中央政権確立時に王宮のみ寺院の北に移された。

  • ワットプラパトムチェーディー

    コーンパトムにある仏教寺院。
    王室寺院の一つで世界一高い仏塔(高さ約127m)、プラ・パトムチェーディーを抱えることで有名です。
    寺院の中心的存在である、プラ・パトムチェーディーはおおよそ4世紀ごろおそらくモン族によって建てられたとされている。
    その後11世紀、この地を支配したクメール人によって改修が行われ、ラーマ4世の時代の改修を経て現在の形となった。
    現在、国内で最も重要な寺院の一つとして王室の保護を受けている。

  • ワットプラマハタート

    木の根に取り込まれた仏像頭部が非常に有名な寺院、ワットプラマハタートは14世紀に建立され、他のアユタヤー寺院と同じように18世紀に起こったビルマ軍の侵攻によって破壊されました。
    当時ビルマ軍はアユタヤにある仏像の頭部をすべて切り落としたといわれています。
    一説には、仏像の頭部には宝物が隠されているとビルマ軍の兵士が信じたことからこのような蛮行が行われたとも言われています。

  • ワットヤイチャイモンコン

    アユタヤ王朝初代のラーマボディ1世の建立で、建国6年目の1357年となっています。
    高さ72メートルを誇る塔はナレースエン王がビルマからアユタヤを取り戻した記念に立てられたもの。
    塔の周りに多くの仏像が安置されているが他の遺跡とは違いあまり破壊されていない。

  • ワット・ラーチャブラナ

    王位継承争いで命を落とした2人の兄を弔うため、1374年にボローマラーチャー2世が建立した寺院。
    その後、王は1431年にアンコールを攻略した際に宝物を持ち帰り奉納したものが、1958年に発見され現在国立博物館で展示されています。

  • ヴィハーンプラモンコンボピット

    タイ最大といわれる高さ19mの仏像を安置しています。
    この仏像は15世紀にラーマティボディ2世によって造られ、1603年にこの寺に返還されました。

  • 戦没者慰霊塔

    クウェー川鉄橋近くに、当時の日本軍の鉄道建設隊によって建てられた戦没者慰霊碑があります。
    昭和19年2月に建立されたもので、第2次世界大戦中の泰緬鉄道建設に従事して亡くなられた連合軍捕虜とアジア労働者のための慰霊碑です。在タイ日本人有志が、毎年3月に慰霊祭を行なっているそうです。

  • 日本人町跡

    17世紀前半アユタヤ王朝時代に、周辺諸国だけでなくペルシャやヨーロッパ、そして日本からの貿易船が往来し国際貿易港として発展してきたアユタヤに築かれた日本人街。
    御朱印船にたずさわる人々が、最盛期には約3,000人住んでいたと言われる。
    なかでもアユタヤの繁栄期、王朝に仕えて王の親衛隊長にまでのぼりつめた日本人街の頭領・山田長政の活躍は良く知られている。
    チャオプラヤ川のほとりに、石碑、石灯籠、鳥居が残っている。

  • 泰緬鉄道

    この鉄道の建設は20世紀初頭の英領ミャンマー時代にイギリスが検討していたが、地形が複雑で建設を断念した。
    戦時中、旧日本軍は海上輸送の危険を避けるべく1942年、ミャンマー戦線の物資輸送のためのルートを確保するため、建設を開始した。
    (イギリスが検討した複数の案の内の1つを踏襲している。)
    建設は迅速さを要求されたためミャンマー側・タイ側両方から開始した。